異変を感じ取ったのは、村外れで遊んでいた子ども達だった。
視界の先に翻る漆黒に緋色の十字が染め抜かれた旗を見、転がるように村へ戻って来るなり、見たままを告げた。 事態を知らされた大人達は、突然姿を現した『敵』を目の前にして頭を抱えた。 まず彼らが行ったことは、領主であるゲッセン伯爵の出城へ使いをやり事実を伝え、一刻も早く派兵してくれるよう願い出ることだった。 しかし戻って来た返答はというと、伯爵の命令が降りなければ軍を動かすことはできない、ついては本城に使いをやるのでそれまで持ちこたえてほしい、というなんとも無責任なものだった。 村長を始めとする大人たちが集まり頭を抱えているところへ、敵からの正式な使者が訪れた。──エドナに恭順せよ。そうすれば悪いようにはしない。 イング隊隊長ロンドベルド・トーループの署名が入った書状は、村に混乱をもたらした。「降伏しよう。いくらなんでもそうすれば無茶なことは言わないだろう」「だが、その後はどうする? イング隊とやらは我々を守ってくれるのか? ゲッセン伯に知られたら、一体どうなる? 城で労役をしている者が、どんな仕打ちを受けるか……」「城の心配よりも明日の我が身だろ?」「……どうせ作物も採れないやせた土地だ。いっそくれてやればいいじゃないか」 議論は堂々巡りをし、結論が出る気配はない。 言い争う大人達を、テッドは少し離れた所でじっと見つめていた。 ようやく起き上がれるようになった母親も、わずかに青ざめた顔でその後ろに座っている。皆暗い表情を浮かべ、互いに顔を見合わせるばかりである。 そうこうするうちにも、時間は無為に流れていくばかりで、一秒たりとも待ってはくれない。 死んだ魚のような目をして無駄な言い争いを繰り返す大人達。 思わずテッドがため息をついたその時、彼よりも少し年下の少女が、急に泣き出した。 確か少女の父親も、テッドの父親と同様、城へ労役へ出ているはずだ「孤児……と、あの御仁は確かに言ったのかな?」 黒玻璃の瞳を向けられたヘラは、短いとび色の髪を揺らしながらうなずく。 「はい。師団長殿にそう告げられたとか。それともう一つ、妙なことを」 「妙なこと?」 「ルウツに親を殺された、と……」 そうか、とつぶやきながらロンドベルトは目を閉じる。 脳裏に浮かぶのは他でもなく、一面血に染まる家族団欒の間。 床に倒れ伏す男女と突き立てられた短剣。 そして、無数の剣を向けられ、微動だにできずに立ち尽くす少年の姿だった。 今も消えることがない鮮明な画像。 それを記憶の底に押しとどめ、ロンドベルトは問うた。 「それで、あの御仁の様態は?」 「かなり回復し、司祭館の書庫で一日の大半を過ごしているとのことですが」 なるほど、と言ってロンドベルトはおもむろに立ち上がる。 どちらへ、と尋ねる副官に向かい彼はわずかに笑って見せた。 「平癒のお祝いでもと。お迎えしたにも関わらず挨拶の一つもなくては、無礼この上ない」 「ですが、師団長殿からの許可はまだ……」 「お顔を拝見しに行くだけだ。尋問しようという訳ではない。問題は無いだろう」 不安げなヘラにもう一度笑って見せてから、ロンドベルトは漆黒のマントを翻し司祭館へと向かった。 ※ 司祭館に足を一歩踏み入れるなり、ロンドベルトはすれ違った若い神官にお客人はどこかと尋ねる。 すると、やや怯えたような口調で屋上へ上っていくのを見かけたとの言葉が返ってきた。 軽く片手を上げて謝意を示すと、ロンドベルトは階段へと向かい、昇ることしばし。 視界が開けた先には、丘一面を埋め尽くす墓碑の群れをみつめる敵国の神官の姿があった。 真っ白な墓碑の群れは、初めて見る者には奇妙な威圧感を与えていることだろう。 この地に赴いた当初抱いた感情を思い出しながら、ロンドベルトはセピアの髪を風に揺らす敵国の神官に向けて語りかけた。 「戦で家族を失った者が、せめて死後は聖地へとの願いを込めてこの地に墓を建てるのです。驚かれましたか? 『無紋の勇者』殿」 その声に応じるかのようにシエル、否、シーリアスはゆっくりと振り返った。 顔は無表情を保っているが、藍色の瞳には言い難い光が宿っている。
暖かな光が優しく自分を包み込んでいる。 死後の世界という物が存在するとしたら、このような所なのだろうか。 そんなことをぼんやりと考えながら、シエルは目を開いた。 そこは、暖炉のある小さな部屋だった。 一体何が起きたのか理解できず、彼は自分が置かれた状況をまじまじと見つめた。 肩口の矢傷には真っ白な包帯がきっちりと巻かれ、わずかに薬草の香りがする。 身にまとっていたのは真新しい夜着で、横たわっているのは柔らかな寝台。 無論身体は清められている。 窓には緋色の分厚いカーテンが引かれ、燭台のロウソクが室内を明るく照らしている。 慌てて半身を起こそうとした時だった。 聞き慣れぬ老人の声が、前触れもなく耳に飛び込んでくる。「気が付いたかの? まだ動かれんほうが良い。傷口が開くからの」 視線を転じると、横たえられている寝台の脇に一人の老神官が座っていた。 醸し出す雰囲気から察するに、徳のある位の高い神官なのだろう。 顔をのぞき込んでくる慈悲深い眼差しに、シエルはおとなしく起きあがるのを止めた。「お前様も、神官とな? ここがどこだかわかるかの?」 ゆっくりとシエルはかぶりを振る。 やれやれと言うように老神官は続ける。「ここはアレンタ。エドナ最果ての地だ。死神が治める死者の街と言えばわかるかの?」「アレンタ……? では、聖地は?」「すぐそこじゃ。お前様は、巡礼者かの?」 答えようとした時、扉を叩く音が室内に響く。 ややあって扉が開き、現れたのは他でもなく、命の価値に重い軽いは無いと言っていたあの神官騎士だった。「気付かれたのですか、アルトール殿? 本当に良かった」 心底安心したようなアルバート。 が、シエルはさらに首をひねった。「失礼ながら何故俺の名を……? 一体これは&hellip
司祭館を出てすぐ目前に見える大きな石造りの建物が、通称『死神の居城』だった。 すでに顔見知りになっている衛兵は、いつになく険しい表情をしているアルバートの様子に、わずかに首を傾げながらも中へ通した。 あとは勝手知ったるなんとやらである。 ずんずんと歩を進めると、アルバートは突き当たりの一際大きな扉の前で足を止める。 その扉を叩こうとした時、内側からお入りください、と言う声が聞こえてきた。『千里眼』は何でもお見通し、ということか。 やれやれと溜め息をついてから、アルバートは重い扉を押し開く。 果たしてそこにはロンドベルトともう一人、ヘラの姿があった。 これは軍事機密の会議中だったのかもしれない。 そう判断したアルバートは深々と頭を下げた。「お取り込みのところ、失礼いたしました。改めます」「その必要はありません。私も今から報告を受けるところでした。二度手間にならないから丁度良い」 戻ってきたのはアルバートの想定外の言葉だった。 一体これは、どういう意味なのだろうか。 疑問に思いながらもアルバートは扉を閉め、一歩室内に足を踏み入れると改めてロンドベルトとヘラに向けて一礼した。 それを受けるロンドベルトの顔には、わずかに笑みが浮かんでいる。「頭数が揃ったところで副官殿、報告を聞こうか。あのお客人はどのような素性かな?」 どうやら自分ははめられたのかもしれない。 そう気づいたものの、いまさらどうすることもできない。 アルバートはこれみよがしに大きく息をつくと、発言者である美しい副官を見つめる。 ヘラは承知しました、とうなずくと、手にしていた書類をロンドベルトの前に置いた。 これは一体、と問いかけてくるようなロンドベルトに向かい、ヘラは簡潔に答えた。「このルウツ皇国発行の通行許可証によると、名前はシエル・アルトール。ルウツ中央管区所属の修士となっています。膨大な量の書写を持っていたので、聖地巡礼の途中だったのは間違いないと思われます」
アルバート・サルコウは困惑していた。 そして何やら嫌な予感がした。 常日頃あまり良好な関係とは言えぬロンドベルトからの急な召還命令である。 そこに何やら裏があるのは明らかだ。 彼自身はあくまでも見えざるものへ仕える神官騎士で軍人ではないのだから、ロンドベルトの命令に従わなければならないという義務も責任もない。 だが、必要とされているとなると首を横に振る訳にはいかない。 そんな自分の馬鹿正直さに軽い頭痛を感じながらも、アルバートは帰路を急いだ。 無数の墓碑に埋め尽くされた稜線に日が沈みかけたころ、ようやくアレンタの司祭館にたどり着いた彼の視界に入ってきたのは、館の入口で押し問答をしている黒衣の男達と神官見習い達の姿だった。「一体どうしたんだ?」 声をかけるアルバート。 と、その声に気付いた神官見習い達は、一斉にアルバートに向かい駆け寄ってくる。「師団長様、助けて下さい!」「大変なことになっているんです!」 何が何だかわからないアルバート。 果たして近づいてみると、そこには思いもかけないモノが文字通り転がっている。 担架に乗せられ横たえられていたそれは、一人の男だった。 乱れたセピアの髪は顔に貼りつき、無数の古傷が残るむき出しの上半身。 肩口には薄汚れた包帯が乱暴に巻かれ、茶色く変色した血がにじんでいた。「……一体、この方は……」 言葉を失うアルバートに、神官見習い達は一気にまくし立てた。「ですから、助けて下さい!」「いくらイング隊隊長閣下のお願いだと言われても、司祭館に素性の知れない人を入れるわけには行かないと、何度言っても……」 けれど、その言葉はアルバートには届いていなかった。 顔を上げるやいなや、彼は叫んでいた。「すぐに薬師を! それと父上…&h
丘陵地帯には、二大国の間での戦で命を失った人々の墓碑が無数に並んでいる。 後味が悪く、かつ血生臭いガロアでの戦から五日。 敵国ルウツからは『黒衣の死神』と呼ばれ恐れられているロンドベルトと彼が率いるイング隊は、死者の街と揶揄される駐屯地アレンタへと戻ってきたのである。 出迎えの一団から一騎がこちらに向かってくるのが認められた。 短いとび色の髪を揺らし大きく手を振るのは他でもなく、ロンドベルトの副官ヘラ・スンだった。 彼女の控えめながら明るい笑顔と声が聞こえてくると、それまでぎすぎすしていた部隊内の雰囲気が一気に和んだように感じられた。──やはりこの人無くしてはこの隊は成り立たない。 それまでの行軍を思い起こし、改めてそう痛感するロンドベルトの前で、ヘラは下馬し一礼すると、うれし涙が草の上にぱたぱたとこぼれ落ちる。「閣下、お帰りお待ちしていました。ご無事でのご帰還、心よりお喜び申し上げます。あの……」 感極まって言葉に詰まるヘラに向かい、ロンドベルトはめったに見せない穏やかな笑みを浮かべてみせる。 そして、矢継ぎ早に命令を下した。「出迎えご苦労だった。負傷者の搬送の手配を頼む。それと、至急アルバート・サルコウ師団長殿を呼び戻してくれないか?」 突然の言葉に、ヘラは数度目を瞬いた。 無理もない。この地域の神官騎士団をまとめるアルバート・サルコウと信仰とは無縁のロンドベルトは、水と油のように不仲と言っても良かったからだ。 そんなロンドベルトが神官騎士団長を呼べ、ということは、何やら良からぬことが起きたのではないだろうか。 そう考えたヘラの顔には、不安げな表情が浮かぶ。 それが自分の身を案じてのことだと理解して、ロンドベルトはわずかに苦笑を浮かべてみせた。「私のことなら心配はない。ただ、戦場からお迎えしたお客人がな……」「お客様……ですか?」
「どういうおつもりですか?」 背後でわめいている参謀に、ロンドベルトは強い不快感を感じて、不機嫌な表情を浮かべて振り返る。 黒玻璃の瞳を向けられると、参謀はそれまでの勢いはどこへやら、しゅんとして黙り込んだ。 その様子に心底ロンドベルトは呆れ果てていたが、一呼吸置いてこう告げた。「どういう、とは一体?」「なぜあの神官を殺してしまわなかったのですか? 奴の言った通り、あそこにいたのはルウツの正規兵ではなく村人にすぎません。奴の口からことの次第が漏れれば、我々の名誉が……」「何をさして名誉と言うのかな? 我々はただの人殺しだ。しかも自らの意思で動く訳でなく、国の命令で大量虐殺をする、何ともたちの悪い殺戮集団だ」 予想外の返答だったのだろうか、参謀は唖然として立ちつくす。 その間抜け面に向かい、ロンドベルトはさらに毒づいた。「彼の言ったことは何ら間違ってはいない。正しいことを述べたまでだ。にも関わらず殺されては道理に合わないだろう。……それに、あの御仁には少々聞きたいことがある」「聞きたいことですか? それは一体……」 参謀が口にしたのは、無理もない疑問ではある。 が、その問いに答える必要性をロンドベルトは持たなかった。 無言で長身を翻すと、彼は自らの天幕へと入った。 勢いよく腰を下ろし、大きく息をつく。そして、目を閉じ先程までのことを反すうする。 脳裏に浮かぶのは、乱れたセピアの髪に激しい怒りに燃えた藍色の瞳。 真っ直ぐにこちらを見据えてくるその瞳に、ロンドベルトは既視感を覚えていた。 ため息をつき、ふと視線を転じた先には、何かが落ちている。 手にするとそれは、首都を出る前に小さな騒ぎとなっていた敵国の手配書だった。 じっとロンドベルトはその人相書きをみつめる。 セピアの髪に、藍色の瞳。 その容姿は伝え聞く敵国の